特集

第4回 フィル・ヘイル 〜肖像画家からの脱却、抽象化、繰り返される題材

リアルとアンリアルが共存する、独特の世界観の絵を描くアーティストとして知られる、アメリカ生まれ、ロンドン在住のアーティスト、フィル・ヘイル(Phil Hale)

◎フィル・ヘイルへのインタビュー:2012年 5月
◎インタビュアー:アマンダ・アーランソン(Amanda Erlanson)

第1回 幼少期からフラゼッタとの出会い
第2回 リック・ベリー、マーベル、スティーヴン・キング
第3回 フォトコラージュ、ブレアの肖像画、サージェントの影響
▼第4回 肖像画家からの脱却、抽象化、繰り返される題材(最終回)


アマンダ: 肖像画から抜け出そうと、抽象化したスカル、闇に浮かぶ顔なしの頭部といった題材を描き始めましたね。わずかに変えて、繰り返し繰り返し、同じ題材を描いています。日常的に描くのは、強制的に自分自身を向上させる手段で、特定のことを繰り返し行うと言っていました。瞑想のようなものなのでしょうか。たとえば、仏教徒がお経を唱え、絵に描き、書き取るようなことでしょうか? あなたは、その形を変えながらの繰り返しを続けることで、変化や気づきのようなものを探しているのだと思いますか?

フィル: 確かに、瞑想的な側面はある。それに、あるプロジェクトに取り掛かると、それが終わるまで毎日同じCDを聞き続けることがあるんだ。仕事をしている間の大きい楽しみだ。最初の曲が始まると、頭の歯車が回転し始めるんだ。素晴らしいよ。それに、繰り返しには実際的な側面もある。僕は、1つの側面を細部にわたって突き詰めることがある。そんなときには、その1つ以外のすべての要素を固定するんだ。そうすれば、起きていることが明確になる。原始的なエンジニアリング手法だけど、うまくいくよ。

9cd30ad1

それに……いつも(少なくとも)矛盾した目標が2つあるんだ。手をかけすぎないこと(正確性は犠牲になる)、限りなく忠実でありたいという願い(僕がリファレンスを使うことからも明確だろう)。つまり、繰り返すことで、現実(すなわち真実)を美化することなく、何かが残るんだ。そして、別のものを引き出す試みも可能になる。そこには、僕とは関係のない何かがある。それ知りたいんだ。それから、僕の視覚と画像とが、どんな風に絡み合うかも知りたい(僕の場合には、形状から構造を抜き出す能力だ)。

アマンダ: 今描いているシリーズは「Mockingbirds(物まね鳥)」というタイトルですね。野生のモッキングバードは、クラクション、牛の鳴き声、カエルの声、虫の音など、新しい音に興味を引かれるまで、同じ音を絶え間なくさえずっています。同じように、あなたは数少ない題材に集中し、わずかに変えながら、何度も何度も取り組んでいます。あなたにとって、「Mockingbirds」のコンセプトの意味は? 1つの画像を徹底的に突き詰めることで、何らかの満足を得ているのでしょうか? 特定の画像にそこまで取りつかれる理由は自分でお分かりですか?

フィル: この質問にはあながたほとんど答えてしまったね。一切の意識なしに、知性という枠にもはめずに、ある画像に引き付けられることがある。愚かで未熟な衝動ではなく(いくらかはそうだけれど)、積み重ねた経験と発展の可能性から来るものだと思いたい。作品を変え、再定義し、予想していない何かが出てきてくれること以外には、特にこれといった期待はない。作品の中で何が起きているか、それがなぜ訴えかけてくるのかは、常に明確に把握できる。でも、それが悩みの種でもあるんだ。そんな風には混在させられないと思うときに、まとまって出てくるんだ。たとえば、ばかばかしいほど直接的な比喩にしかならないものもあって、そんなときには、本来そうあるべきだとは思えない。

b5823ba7

僕は、1点ごとの作品が、不安定であってほしいし、そうあるべきだと思っている。集合としての意味を持つのは、展覧会場だけだ。絵は1枚では手に負えないほど不安定だ。もちろん、画家と鑑賞者では、作品に求めるものがまったく異なる。でも結局は、作品を生かしてくれるのは鑑賞者だ。大変なことだけれどね。バイクのレース関係者から、こんなことを聞いた。「理想のレース用バイクは、勝てるマシンであり、ゴールラインを超えたらバラバラに壊れるマシンだ。期待される機能を果たすギリギリにデザインされている。それ以上のものは、本来の要求を妨げるものでしかない」

下手で、馬鹿げていて、何の用もなさない絵をしばらく描き続ける必要がある。

アマンダ: 最近の作品で繰り返し描かれる要素に、暴力的な抽象化があるように思います。リアルな人間が、何かの平面でスパッと切り取られたり、一部が消えてしまったり。まるで、現実での存在が条件付きで、一瞬にしてシュッと消え去ってしまったような。以前、崩壊の縁にいようとする意思を持つように心がけていると言っていましたね。このような抽象化された要素は、普通に描いただけでは表現できない、未知の可能性を感じさせ、何らかの形でそれを始動させようというのでしょうか。恐れや危険を含む絵の方が、あなたにとっては興味深いのですか?

4ca421d0

フィル: その通り。僕が付け加えることはほとんどないね。絵に生気を与え、揺さぶり、対立や困難に直面させる何か、あるいは鑑賞者が乗り越えるべき何かを入れるんだ。あるいは、安心確実な要素との対比にすることもある。ずいぶん理想論的になってしまったね。何も危険にさらされていなければ、その作品が必要だと信じるのは難しくなる。ともかく、作品の必要性はそこにある。ばかげた考え方だろうし、言い過ぎかもしれない。とにかく動かし、生気を与えたいと考えている。

アマンダ: 絶え間なく形を変えていく作品を見ると、自己嫌悪、自分の直観への不信のようなものを感じるんです。稚拙さ、臆病さ、本来の作品はこの先の未来にあるという信念から来るのかも知れません。あなたが打ち破ろうと闘っている、先入観や習慣といったもので覆い隠された未来に。どうでしょう? 当たっていますか?

フィル: 素晴らしい質問だね……。自分自身に反して行動することは必要だ。それなしには何も起こらない。少なくとも、自分を正当化したいという意識の外側に、自分の身を置くようにしている。当らずとも遠からず、といったところかな。自己嫌悪(ちょっと強すぎるかもしれない)は、自分の行動が臆病だと本当に知っている唯一の人間が自分だからだ。失敗や弱さから決断を下すなんて、許されない、絶対に。

97ddce16

形状の変化については、もっと具体的に話した方がいいだろう。黒い頭部は、気軽な気持ちで描いた作品と同時に描いていたんだ。あの連作は、寒い冬に閉じこもって描いたわけじゃない。あらかじめわかっている場所に導かれるように絵の具を置くのではなく、物理的な反応を大切にして描いてみたんだ。練習であると同時に、一定の期待や反応を定着させる方法でもあった。肖像画は特に、制約が過剰になる傾向があって、それでは作品が台無しになってしまう。非生産的な側面ばかりが補強され、まるで反射神経を磨いているようなものだ。悪い習慣を捨て去るために、いろいろ試しているんだ。

7f653d62


本記事は、2012年 5月 23日に行われたインタビューであり、ブログ「Erratic Phenomena」の翻訳です。執筆者およびアーティストの許可を得て掲載しています。

◎インタビュアーについて
アマンダ・アーランソン(Amanda Erlanson)は、ライターであり、収集家であり、アートブログ「Erratic Phenomena」の執筆者です。ロサンゼルス在住。そこでは、エンターテインメント業界とアートの世界を行き来している。最近の著作には、「Heroes & Villains」(共著)「Chris Berens: Mapping Infinity」「Andrew Hem: Dreams Towards Reality」「Mark Ryden: The Gay ‘90s」などがある。