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写真集『日々 “HIBI” TSUKIJI MARKET PHOTOGRAPH TAKASHI KATO』の魅力に迫る〜「グラセット・エフエム」技法が生み出す新しい印刷体験〜

フォトグラファー 加藤 孝氏による写真集『日々 “HIBI” TSUKIJI MARKET PHOTOGRAPH TAKASHI KATO』(以下、『日々』)が上梓された。築地の“いま”を遺した一冊である。加藤氏は、作家、映画監督、音楽家など世界的クリエイターのポートレートのほか、劇場・歌舞伎役者まで幅広く撮影を手がけている。加藤氏がファインダーで切り取った“築地の日々”に思いを馳せずにはいられない。

この写真集を手にして驚くのは、モノクロ写真の力強い表現力、メッセージ性である。コントラストが高く、光やハイライトで被写体の輪郭や形がくっきり浮かび上がる。築地の日常の中で切り取られたモノや風景は、どれも懐かしいものばかりで、見る者の潜在意識に強く訴えかける。

また、漆黒をとことん追求した表現に驚かされる。印刷は世界で2例目となる「グラセット・エフエム」という新しい技法が採用されている。デザインワークも見事で、これまで見たこともない造本設計、タイポグラフィ処理が随所にある。さまざまな楽しみ方ができる写真集である。

本記事では、本書の著者である加藤氏、企画立案者である廣岡好和氏、装丁、デザインを手がけたアートディレクターの髙谷 廉氏、デザイナーの岩松亮太氏にお話を伺い、制作の裏側を語っていただいた。さらに、印刷・製本を手がけられた株式会社サンエムカラーの篠澤篤史氏に「グラセット・エフエム」について解説していただいた。

写真集『日々』ができるまで

築地市場は豊洲への移転が予定されており、特別な思いを抱いている人も多いだろう。筆者は、もっぱら場外を散歩したり買い物や食事を楽しむ派であるが、個人的な思い出としては、学生時代に築地の場内で冷凍庫の倉庫内で荷物を整理するアルバイトを経験したことがある。冷凍庫内での仕事では防寒用のジャンパーを支給されたが、さすがに長時間の作業はキツイ。時々外に出て体を温めなければならなかった。休憩の合間に職員の方が気さくに話しかけてくれたこともぼんやりと憶えている。男の仕事場とは、本来こういうものだろうと、今でも思っている。

企画の起こりは、かつて築地で仲買人をしていた廣岡氏(現在は、松陰神社前にあるマルショウアリクという牡蛎屋の店主)のInstagramの投稿がきっかけだったという。築地の移転に伴って、これまで自分を育ててくれた築地が失くなってしまうことへの複雑な思いを吐露した書き込みだった。2016年4月末のことである(写真1)。

廣岡氏の投稿が、お店の常連でもあるアートディレクターの髙谷氏の目に止まった。髙谷氏は「築地への思いを伝えるために、何かアクションを起こそう」と周囲に呼びかけた。翌月の5月12日には、有志が集まり、築地の調査に向かった。その頃は写真集を作るという構想は固まっておらず、イベントや展覧会、雑誌のような媒体をぼんやりとイメージしていたそうである。

(写真1)
この企画が始まったのは、廣岡氏がポストしたコメントがきっかけだった。当時は築地移転が報道された頃で、廣岡氏のInstagramではその話題に触れた投稿が回数を増していた。この投稿が、アートディレクター髙谷氏、フォトグラファー加藤氏を動かした

同じ店の常連である加藤氏に写真を撮ってもらおうという提言で、徐々に写真集の構想が固まっていった。しかし、いざ事を起こそうとなると、クリアしなければいけない問題が次々に浮かび上がった。プランニング、撮影、デザイン、印刷、流通の問題などなど……。とりわけ出版業界での写真集の状況は厳しく、出版社側も慎重にならざるをえない。まさに苦難の船出だった。

廣岡氏は、主力となるメンバーを連れて築地市場を案内する役を担った。廣岡氏の経営するお店では、これまで加藤氏の誕生日に合わせて、お店に加藤氏の手がけた写真を展示してきた。最初の年(2015年)の展示は、加藤氏がこれまでに手がけたポートレート、次の年の展示はニューヨークや台湾の写真だった。

廣岡氏は「お店に展示した加藤さんの写真が、髙谷さんの目に留まり、おそらくお二人の間に、いつの日か一緒に仕事をしたいという思いが芽生えたのではないかと思います。自分のお店が触媒になり、今回の写真集刊行のきっかけになったことはうれしく思います。まさか3年目に、自分が深く関わってきた築地の写真集を刊行したり写真展を開くことができるなんて思いもしませんでした」と感慨深く話してくれた。

写真集として一冊の本にまとめるプロセスでは、アートディレクターやデザイナー、ライターなどの力が必要になる。アートディレクターの髙谷氏の呼びかけで、優秀なスタッフが揃った。しかしプロジェクトが動き始めた頃、思わぬアクシデントが起きた。移転先の豊洲市場の盛り土や安全面の問題がクローズアップされ、移転計画そのものが揺らぎ始めた。マスコミが注目する社会問題になり、一般の人も関心を寄せるテーマになった。

刻々と変化する情勢の中で、2017年2月、写真集刊行までの道筋がようやく軌道に乗った。写真集の刊行に向けてプロジェクトは前進する。そして2017年7月26日、ついに写真集『日々』が上梓された。ずっしりと重い一冊である(写真2)。

(写真2)
写真集『日々 “HIBI” TSUKIJI MARKET PHOTOGRAPH TAKASHI KATO』。企画:廣岡好和/著者:加藤 孝/アートディレクション:髙谷 廉/デザイン:岩松亮太/出版社:玄光社/発行年:2017年/製本、頁数:ハードカバー、104頁/サイズ:260×260×12mm/用紙:OK 金藤+/印刷・製本:サンエムカラー

「グラセット・エフエム」という印刷技法

加藤氏のお話の中で、今回の写真集を作るにあたって参考にした写真集があることを伺った。1969年に刊行された石元泰博写真集『シカゴ,シカゴ』(美術出版社)である。写真のコントラストが高くスミの深さが印象的な1冊である。今回の写真集にあたっては、往年のグラビア印刷の魅力を現代の印刷技術で再現するというテーマが潜んでいる。

この写真集『日々』では、「グラセット・エフエム」という世界で2例目の印刷技術を採用している。「グラセット・エフエム」は京都の美術印刷会社、サンエムカラーによるもので、グラビア印刷のようなインキの厚みをオフセット印刷で再現するという試みで生まれたものだ。同社の篠澤氏に「グラセット・エフエム」の技術についてお話を伺った。

一般的には、オフセット印刷機でスミを重ね刷りするとインキの乾燥が遅くなるので、インキの使用量が制限される機構になっている。極限までインキを盛ると4色刷りの場合、総インキ使用量が350〜400%になってしまい、乾燥に時間がかかり現実的ではない。「グラビア印刷のようなインキの厚みをオフセット印刷で表現するのは難しく、どの印刷会社も苦労しています」と篠澤氏は語る。

そこでサンエムカラーでは試行錯誤を重ね、UV印刷機でインキの乾燥を早め、さらにエフエム・スクリーンで印刷網点の密度をコントロールする「グラセット・エフエム」の印刷方式を開発した。「グラセット・エフエム」は2016年に商標登録され、現在では同社の主力サービスのひとつになっている。

「グラセット・エフエム」印刷の最初の事例は、浅葉克己氏が造本を手がけ復刻された、三島由紀夫の写真集『二十一世紀版 薔薇刑』(発行:YMP、販売:丸善、2015年刊)である。この写真集は2016年TOKYO ADC賞を受賞し、展示会などで見る機会も多く、ご存知の方もいると思う。印刷ではスミを4回重ね、驚くほどボリューム感のある印刷に仕上がっている。

写真集『日々』のために最初のテスト印刷を行ったのが2017年5月上旬。試行錯誤を重ね、同年6月末の5回目のテスト刷りで思い描いていたものになった。「コレだ! と大声で叫びたくなるくらいの仕上がりに辿り着いた」とデザインを担当された髙谷氏、岩松氏は語る(写真3、4)。

(写真3、4)
初校(左)と5回目の校正紙(右)。スミの濃度が大きく変わっているのがわかる

以下では、筆者が撮影したテスト刷りのスナップ写真を参考にしながら、印刷版の構造を解説する。通常スミ2色のダブルトーンでは、暗部とハイライト部を分けてスミ版とグレー版に分解するが、写真集『日々』では4版に分解、スミ、グレー(マットメディウムを混ぜたスミ)、スミ骨(こつ)、グロスニスの4版で刷り分けている(写真5)。

(写真5)
校正紙の色玉部分。インキは4色。スミ骨、スミ、グレー、グロスニスの4色を重ねている

スミ骨は、最暗部を表現するもので、「締め版」とも呼ばれる。この写真集では、100%の暗部を表現するものだ。さらに100%の暗部を強調する目的で、スミ100%の上にグロスニスを重ねて調子を出している。単純に透明のグロスニスを重ねるだけだと表面が白っぽくなってしまうので、グロスニスにスミのインキを調合し、グレーにする調整を行っている。

「暗部の表現にグレーのグロスニスを重ねる手法は、これまでに例がなく、『日々』の写真集の大きな特徴になっています」と篠澤氏は語る。この効果は写真集で実際に見て確認するしかない。新しい印刷体験と言えるもので、本写真集の見所のひとつになっている。(写真6)はグロスニスを重ねた部分。(写真7)はエフエム・スクリーンの網点の形状をルーペで拡大した写真だ。

(写真6)
グロスニスが盛られた暗部。写真では効果が伝わりにくい。実際の印刷物で確認してほしい
(写真7)
一部分をルーペで拡大。ランダムに微細な網点を生成するエフエム・スクリーンの形状がわかる